【大学教育シリーズ第二回】教育機関も垂直統合から水平統合へ

大学の教育というテーマで前回記事を書いてからだいぶ間が空いてしまったが、第二回ということで教育機関の垂直統合から水平統合へのシフトについて書いてみたい。

垂直統合から水平統合へのシフトは現在コンテンツ業界のほぼ全ての方面において起きている現象である。動画コンテンツで言えば元々はテレビ局からの垂直統合でこの業界は成り立っていたがスマホの台頭により、テレビはYoutubeやCchannelやAbemaTV,Netflix, LINE LIVEなどと並び動画コンテンツの一つとなり、チャンネルの独占という利権は崩れつつある。これによってコンテンツはテレビ局から視聴者へという従来型の垂直統合からコンテンツが横並びで競争を始める水平統合へと切り替わろうとしている。

これと同じことが教育機関でも起ころうとしている。これまで教育機関は6歳から12歳は小学校、12歳から15歳は中学校、15歳から18歳は高校、それ以降は大学という流れが一般的であった。しかしこれも動画コンテンツ業界と同じで水平統合になりつつある。ネットには様々な教育コンテンツが存在している。Youtubeで数学や理科、社会の解説動画を見ることも可能であるし、例えばSimple Showのような世の中の事象をわかりやすく解説してくれる動画コンテンツもある。またリクルート社のスタディーサプリやニコニコ動画のN高では教育のプロと言われる人々の授業が(高校や大学と比べて)安価で簡単に受けられる。その他にも最近ではオンラインサロンを開設する人が増えている。代表的な例でいうと堀江貴文イノベーション大学校や勝間塾といったオンラインサロンが挙げられる。堀江貴文イノベーション大学校では分科会というものが存在し、様々な分野における事業のプロジェクトに参加又は企画することができたり、毎月行われる定例会では各分野のプロフェッショナルから直接話しを聞くことも可能である。勝間塾も以下のような構成となっている。

勝間塾では、勝間和代が講師を務め専門家などもお招きする月例会や毎月の課題などを通して、みなさんの仕事のスキルアップ、起業や出版、やりたい気持ちの維持をサポート。
男女比は半々でオフ会や合宿も盛んですので、一緒に学びたい仲間に出会うことができます。
5年後になりたい自分になるために、ともに支えあって成長していきましょう。

勝間塾WEBサイトより

www.katsumaweb.com

このように教育機関というよりは近未来的なコミュニティーに近いかもしれないが、これらのコンテンツは今後間違いなく高校や大学の地位を脅かすだろう。そのタイミングとしては、企業の採用の形が変わっていくときであろう。これまでの高校や大学で大企業仕様に教育されてきた人材を大企業が庇い切れなくなったタイミングでこれまでの共同幻想が崩れていく可能性は極めて高い。こうなった世界において、大学や高校での教育はネット上で数ある教育コンテンツの一つとなり、より安価で同じかそれ以上の教育を受けられることに気づいた人々は従来の教育機関で学ぶことに意味を見出さなくなるのではないだろうか。

 

ということで次回は私の知っている限りのオンラインサロンを幾つか紹介していく。 

「ほのほ」(2005,スピッツ)における主人公の狂気

 今日はスピッツの「スーベニア」というアルバムに収録されている「ほのほ」という曲に関する分析をしていく。

前回のエントリーにも書いたようにスピッツの曲には死の臭いが強く漂っている曲が多いという内容を述べたが、今回取り上げる「ほのほ」(読み方は「ほのお」)もまさに死というテーマが後ろにある気がしてならない。

イントロのギターのリフの切迫感や序盤の歌詞にもある

みぞれに打たれて 命とがらせて

煤けた街で探し続けた

崩れそうな橋を息止めて渡り 

「気のせい」の先に見つけたものは...

(ほのほ、2005)

というフレーズはあたかも主人公が今煤けた街で死の狭間にいるような情景を思い起こさせる。

歌詞に登場する主人公の目的はただ一つである。サビにも出てくる「君を暖めたい」というのが彼の唯一の目的なのである。煤けた街で「君」を探し続けている主人公のイメージがぼんやりと浮かんでくる。主人公にとっての「君」とは既に他界してしまっており、体からは熱が奪われてしまった状態なのかもしれない。そんな「君」の消えてしまった魂を探して主人公は煤けた街探し続けているのではないだろうか。そして「気のせいの先」に君の存在を感じ、自らも赤い炎になることを決意する。冷めてしまった「君の魂」を暖めるために主人公は炎となり自らの命を投げ「君」を追いかけて死を選び別の世界へと旅立っていく歌なのではないかと私は感じる。アウトロの力強いメロディーは主人公が自らの選択を自ら祝福しているかのような、世間的に見ると間違いを犯しているであろう主人公であるが、そんなものは何も見えず「君を暖めたい」という思いだけで別の世界へと飛んでいく主人公の想いが感じさせられる。 

スピッツの歌詞において主人公は決して善良な市民ではないと思う。

クズと呼ばれても笑う

(8823、2000)

夜を駆けていく 今は撃たないで

(夜を駆ける、2002)

正しいと信じた 歩みが全て

罪なこと 汚れたことだとしても

(Sj,2016)

など世間的に見ると非道徳的であったり、罪なことであったとしても主人公と君との世界におけるルールが彼にとっては絶対でありその他は関係がないのである(もしかしたらそのルールは「君」にすら合意を得ておらず彼の独りよがりのルールなのかもしれない)。そんな狂気にも捉えられる力強さやそれを表に感じさせない草野正宗の甘い声もまたスピッツの魅力を強く惹き立てている。

「ほのほ」はそんな二人だけの国における主人公の強すぎる程の感情がむき出しになった曲なのである。

余談だが「スーベニア」のジャケットにある赤い背景で亀に乗った人が「ほのほ」の主人公なのではないかと妄想したりしている。

 

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スピッツに対する想い

思春期に聞いた音楽がその人にとって特別な音楽であり続けることは少なくない。僕にとってスピッツはそんな存在だ。思春期の感性豊かな時代に見た景色や感じた匂いやあの言語化できない感覚。そんな何かがスピッツの音楽を聞いていてふと現れることがある。その感覚は心地よくもあり、時に辛い過去を思い出させることもある。現在の自分とスピッツの歌詞に登場する主人公を照らし合わせてしまうこともある。スピッツという色眼鏡を掛けて世界を見ることによって美化された過去や現在、そして未来に酔いしれることができる。

音楽の幅の広さという面においてスピッツは他の名だたるアーティストたちに劣る部分があるかもしれない。例えばくるりは180度違うといえるような音楽が同じアルバムの中に何曲も存在し、まるで音楽を聞いていて旅をしているような感覚を与えてくれる。しかしスピッツの音楽はくるりのような多彩な楽器を利用したり、特異なアレンジを加えるのではなく、4人のバンドという骨組みにとことんこだわり、30年近くそれを突き詰めてきている(もちろんくるりを否定するわけではなく、大好きなバンドの一つだ)。そんなロック一筋なスピッツの一貫性はとにかくかっこいい。

そしてスピッツの存在の特異さはその歌詞にも現れている。

誰も触れない二人だけの国

(ロビンソン,1995)

 知らない人のほうが少ないといえるスピッツの名曲「ロビンソン」の歌詞の世界はまさにスピッツそのものだ。私の記憶する限り殆どの曲は俺/僕と君という二人の人間の間の世界を描いた作品である。

スピッツの曲は死という概念と深く結びついている。ボーカルで殆どの曲の作詞作曲を手がける草野マサムネは自分の作る曲のテーマは「セックスと死」だけであると述べている。人間であれば誰しも抱える絶対的な問題である「死」の臭いがスピッツの曲たちからは強く感じられる。

夜を駆けていく

今は撃たないで

(夜を駆ける,2002)

 

崩れそうな橋を

息止めて渡り

(ほのほ,2005)

 

こげた臭いに包まれた

大きなバスで君は行く

(サンシャイン,1994)

など俺/僕や君の「死」を思わせる歌詞は多々存在する。そしてこれらの「生と死」が交錯する歌詞が彼らにしかない独特の世界観を作り出していると言えるだろう。

そんな私の大好きなスピッツのアルバムや各楽曲などを取り上げたりしつつ様々な視点からこのバンドを考察していきたいと思っている。独りよがりな文章になってしまうかもしれないが、お付き合いいただければ幸いである。

これからは音楽系の記事も書いていきます

このブログではビジネスや教育など真面目な話ばかりをしてきたので、個人的な趣味の話も出していきたい。僕の趣味の一つにJ-Rockがある。元々音楽が好きだったが、特に好きなのはJ-Rockである。バンドというのが好きで、メンバー間のストーリー性などのバックグラウンドがそのまま曲に現れるというのがとても好きなのである。そして何よりもかっこいい。

音楽がすきであるものの、コアな音楽への知識は全然少なく、基本的にメジャーからちょいコアくらいのバンドを多く聞いている。スピッツミスチルからくるりフジファブリックアジカンパスピエ、Awesome City Club、Triceratopsチャットモンチーindigo la end,GOING UNDER GROUNDあたりは頻繁に聞く。洋楽も時々聞く程度だがメインは邦楽だ。

音楽知識も豊富ではなく、〇〇な感じのような曖昧な表現も多々利用してしまうかもしれないが、よければお付き合いいただきたい。

プラットフォーム事業における営業について

私は某プラットフォーム企業の営業部に所属している。営業とは行っても少し特殊で、プラットフォームへの掲載の勧誘のような営業である。その際に多々直面する問題がある。営業のKPIが掲載数なのか売り上げ金額なのかというで話だ。

 

結論から言うと私は売り上げ金額のみがKPIとなるべきだと思っている。掲載数を追いかけると誰も幸せにならない。営業側は数を伸ばすために需要がなさそうな場所でもひたすらに掲載を目指すため、時間と労力が割かれる。会社としてもサーバーが重くなりいいことがない。それに対して掲載側も稼働率が低いにもかかわらず、掲載の手続きで時間と労力を消費する。利用者側も質の低いプロダクトが増えることによって最適なプロダクトを選ぶのに手間がかかり、精度も落ちてしまいがち。

 

ただ初期のフェーズにおいてはとにかく数を増やすことも重要である。これだけの数のプロダクトを掲載しているんですよ!と言うのが営業の武器ともなる。しかしその一定のボーダーを超えた時点でやり方をシフトすべきである。

 

確かにプロダクトの質とクオリティを上げると言うのは結果が出るまでに時間がかかる。当初は成績が落ち込むことはあるが、それでも我慢が必要である。全てはプラットフォームを次のフェーズへ導くためだ。

 

と、ここまで見て来ると一つの悲しい現実が浮かんで来る。プラットフォームビジネスにおいて、サービスが成長するにつれて、営業部の存在意義は徐々に消えていく。そうなると人海戦術から少数精鋭の体制に転換する必要がある。(もちろん立ち上げ当初人海戦術をするほど従業員を増やすことすら難しいが。)例えばAirbnbやメルカリほどプラットフォームが強くなってしまえば掲載者が自ら登録をするようになるからだ。プラットフォームたるもの本来こうあるべきである。これからプラットフォームビジネスを始めようという方はここに意識して営業部の立ち位置を常に考えていてはどうだろうか。