スピッツに対する想い
思春期に聞いた音楽がその人にとって特別な音楽であり続けることは少なくない。僕にとってスピッツはそんな存在だ。思春期の感性豊かな時代に見た景色や感じた匂いやあの言語化できない感覚。そんな何かがスピッツの音楽を聞いていてふと現れることがある。その感覚は心地よくもあり、時に辛い過去を思い出させることもある。現在の自分とスピッツの歌詞に登場する主人公を照らし合わせてしまうこともある。スピッツという色眼鏡を掛けて世界を見ることによって美化された過去や現在、そして未来に酔いしれることができる。
音楽の幅の広さという面においてスピッツは他の名だたるアーティストたちに劣る部分があるかもしれない。例えばくるりは180度違うといえるような音楽が同じアルバムの中に何曲も存在し、まるで音楽を聞いていて旅をしているような感覚を与えてくれる。しかしスピッツの音楽はくるりのような多彩な楽器を利用したり、特異なアレンジを加えるのではなく、4人のバンドという骨組みにとことんこだわり、30年近くそれを突き詰めてきている(もちろんくるりを否定するわけではなく、大好きなバンドの一つだ)。そんなロック一筋なスピッツの一貫性はとにかくかっこいい。
そしてスピッツの存在の特異さはその歌詞にも現れている。
誰も触れない二人だけの国
(ロビンソン,1995)
知らない人のほうが少ないといえるスピッツの名曲「ロビンソン」の歌詞の世界はまさにスピッツそのものだ。私の記憶する限り殆どの曲は俺/僕と君という二人の人間の間の世界を描いた作品である。
スピッツの曲は死という概念と深く結びついている。ボーカルで殆どの曲の作詞作曲を手がける草野マサムネは自分の作る曲のテーマは「セックスと死」だけであると述べている。人間であれば誰しも抱える絶対的な問題である「死」の臭いがスピッツの曲たちからは強く感じられる。
夜を駆けていく
今は撃たないで
(夜を駆ける,2002)
崩れそうな橋を
息止めて渡り
(ほのほ,2005)
こげた臭いに包まれた
大きなバスで君は行く
(サンシャイン,1994)
など俺/僕や君の「死」を思わせる歌詞は多々存在する。そしてこれらの「生と死」が交錯する歌詞が彼らにしかない独特の世界観を作り出していると言えるだろう。
そんな私の大好きなスピッツのアルバムや各楽曲などを取り上げたりしつつ様々な視点からこのバンドを考察していきたいと思っている。独りよがりな文章になってしまうかもしれないが、お付き合いいただければ幸いである。