【書評】藤沢数希氏著『「反原発」の不都合な事実』から見る民主主義とマスメディアの融合が引き起こす最悪の現象

311以降我々日本人は原発問題という大きな課題を突きつけられ、これまで多くの議論がなされてきた。福島産の食品への過剰な偏見や避難区域から転校してきた子どもへのいじめ等いわゆる風評被害が国内外問わず起きている。菅直人内閣時代から原発の停止が進められ再稼働が困難な状態が続いている。

本書では原発の経済的合理性、各発電方法により失われる人命の数、原発以外の発電方法の多大なリスクがわかりやすく説明されている。風力や太陽光などの再生可能エネルギーは極端にエネルギー密度が小さく火力発電でそれを賄う必要があり、大気汚染による被害者を出してしまう。またエネルギー密度が低く高価な電力を国民が強制的に購入させられ、更に国が補助金を支給しているという現状には経済的非合理性を感じざるを得ない。

原発は近隣住民に大きなリスクを背負わせてしまうという大きな弱みを持っている。藤沢数希氏も本書内で述べているように、近隣の人々には何かしらの恩恵が与えられるべきであるし、原発の電力の恩恵を受ける人々はそのことに感謝しながら生活をしていく必要がある。しかしメディアの過剰なまでの報道やネットに流れるデマを信じ込み、感情に身を任せて「反原発」と叫んでしまうのは大きな問題である。

民主主義とメディアが融合するとこのような非合理的選択が生まれてしまうことが少なくない。資本主義市場を活きるメディアのKPIは当然発行部数、視聴率、PV数等になってくる。民主主義における政治家のKPIは民衆からの支持率になる。メディアはビュー数が稼げそうな刺激的なネタを過剰に報道することによってKPIの達成を目指す一方、政治家はそれらの報道に乗っかり民衆を誘導したほうが支持率が上がるという構造になってしまっている。だからこそ原発停止や豊洲移転延期という政治的パフォーマンスが行われる。豊洲に関しても原発と問題の構造はほぼ同じで小池知事自身も豊洲の安全を認めながらも都民による安心がないという。豊洲よりも築地のほうがよっぽど危険で、移転延期による費用も莫大であるにも関わらず、世論においては感情論が先行してしまう。舛添前都知事辞任の際も舛添氏が豪遊した財産などせいぜい数千万だが彼を辞任させ、再選挙を行うための費用は数十億に登る。で、代わりに就任した小池氏がこの有様。。。(もちろん良い部分もあるけれど)

このように世論の大きな動きはロジックに基づくケース以上に感情に基づくケースが多い。マスメディアによる垂直統合時代が終わり、誰でもメディアになれるようになった。こんな時代だからこそ藤沢数希氏のようなSNSにおけるインフルエンサーがこのような声を上げていくことが非常に重要になる。また我々も報道されている内容がどのような意図を持ち、どのようなロジックに基づいているのかを理解し物事を発信していく必要に迫られている。

藤沢数希氏の『「反原発」の不合理な事実』は約200ページと長すぎず、専門知識がなくても読める内容となっている。今後の日本のエネルギー問題を考える上で読むべき一冊と言っても良いだろう。

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Mr. Childrenの「僕らの音」に見る桜井和寿の作詞の世界

今回は初めてスピッツではないアーティストについて書いて見る。

Mr.Childrenの「僕らの音」の解釈に関しては諸説ある。この曲は桜井和寿の作詞の巧さが顕著に現れた一曲であると思う。彼の作詞の一つの特徴としてミクロとマクロを同じ視点から描くという点が挙げられる。

この曲は初々しい恋の歌とも捉えられる一方何か社会の大きな問題に関して歌っているようにも捉えられる。ファンの間では911の影響を受けたという解釈が多く、アルバム「HOME」に収録されている「もっと」と同時期に作られた曲であり、その「もっと」がグラウンドゼロから影響を受け作られた曲であるということを桜井自身も述べている。

出だしの歌詞はまさにそんな不安定な世

情勢から影響を受けている。

Bye bye bye bye bye bye
風の音が 鳥の声が
別れの歌に聞こえる

物悲しげな曲の始まりはこの曲の優しく切ない世界感を醸し出している。

君は九月の朝に吹き荒れた通り雨
叩きつけられて
虹を見たんだ そこで世界は変わった

主人公は人を想うことを通して世界の全てが愛を歌っていることに気づく。それと同時に人の儚さや虚しさも知ってしまう。

そして二番のサビでは桜井和寿節が炸裂しており秀逸である。

名作と呼ばれる作品を見たり聞いたり読み漁ったりして
大人を気取って少し無理して暮らした
だけど君のこととなると途端にわからなくなる
恋するだけの阿呆になり
ただ ただ ただ 胸が苦しくなる

色んな知識を得た賢くなっていっても、恋だけはその知識が応用出来ないことを主人公は知り。世界の様々なニュースを知っても自分の一番大切な人のことをわかってあげられず、ただ胸の痛みだけが残るという恋愛における虚しさや苦しさを巧みに描いている。私は桜井和寿のことを「感情の微分の天才」だと思っている。小説家や詩人のような情景描写が彼はとにかく上手い。

相手のことを少しずつ理解し、少しずつ距離を縮めていけたらいいという主人公の願いがこの曲には込められている。その気持ちの背景には911やそれによる紛争など相手への愛に欠ける行為が世の中に蔓延していた時代背景が隠れている。

「僕らの音」は世界の片隅の小さな恋愛の物語と別の世界で起こる大規模な紛争に対する願いが込められた歌なのではないだろうか。

 

I LOVE U

I LOVE U

 

 

 

スピッツの雪風に見る死と再生の物語

今日は2015年発売の雪風について分析して見たい。
まず1音目を聞いた瞬間にホッとする感覚やAメロの優しいメロディーがなんともスピッツらしい。スピッツとしては珍しく冬の歌である。雪風というタイトルもとても美しい。

ボーカルの草野さんはこの曲を死者の目線から歌った歌と述べている。この視点から雪風を分析していく。

 この曲は現実の世界で繋がらない誰かが自分の背中を押してくれるような安心感を与えてくれる。もう会えなくなってしまった人からこんな言葉をかけて欲しいという視点で歌詞を書いたのかもしれない。そんな優しい応援歌でもある雪風だが特に感動的なのは二番の歌詞だ。

現実と離れたとこにいて こんな風に触れ合える事もある

もう会えないって嘆かないでね

お願い 夢醒めたら 少しでいいから

無敵の微笑み見せてくれ

君は生きてく 壊れそうでも愚かな言葉を誇れるように

主人公は失ってしまった人のことが忘れられず、心の中でずっとその人と会話をしていたのかもしれない。そんな中「もう会えないって嘆かないでね」という歌詞にもあるように彼らの最後の交信がこの歌の中では描かれているのかもしれない。そしてこの夢が醒めても自分自身の信じた言葉や道を信じて歩いていって欲しいというエールがサビの中では描かれている。「愚かな言葉」とはまさに世間的には受け入れられなくても自分が正しいと思う言葉や思想を信じて歌い続けるスピッツ魂のようなもののことだろう。

その後の間奏は主人公が「巻き戻しの世界」から時空を超えて現実の世界に戻る過程なのだろう。

涙が乾いてパリパリの冷たい光受け立ち上がれ

まだ歌っていけるかい?

最後に主人公は失ってしまった誰かと別れを告げ大粒の涙も渇き、これから先の世界で強く生きていく決意をしたのであった。

そんな別れとはじまりの物語が「雪風」では描かれている。

マンガ書評「からかい上手の高木さん」

今回は初の書評ということで、「からかい上手の高木さん」というマンガの書評を書いてみたい。

このマンガは無料お試しで1巻をたまたま読んでしまい、続きが気になって4巻まで読んでしまった。最新刊の5巻は未だ読めていないが書評を書いていきたい。

このマンガの魅力は何より主人公の西方の童貞力と高木さんの可愛さだろう。西方はとにかくおっちょこちょいで毎回高木さんにはめられ、からかわれてしまう。西方は高木さんのことが好きで、彼女の一言一句に動揺してしまう童貞感が多くの男子の共感を呼ぶ作品になっているのではないだろうか。また回の終わりごとに高木さんが西方に好意のあるような描写が盛り込まれており、これがまた甘酸っぱい青春ラブコメディーという感じである。

男性というのは女性よりも子供っぽく、女性の手玉に転がされてしまう男性は多いと思う。そんな男性にとって西方の気持ちというのはかなり共感できるのではないだろうか。一方高木さんほどあざとく、色っぽいあの雰囲気をまとった中学生もそうそういないと思うが笑

しかしこのような青春マンガやラブソング、恋愛映画などには疑問に思うことが多々ある。何故か童貞力のある男が女の子に好意を持たれる傾向にあるのだ。たとえばJ-Popの歌詞でも女性に一途な男性が美しく描かれたり・・・。藤沢数希さんの恋愛光学で言うところの非モテコミットを美しく描くクリエーターは実に多いのだ。こういった風潮がある種に我々の恋愛観を歪ませてしまっている部分もあるのかもしれない。

そんなことも考えてしまったが、とにかくこの「からかい上手の高木さん」はストーリーがとにかく可愛らしく、青春の淡い思い出が蘇るポップな作品となっているのでぜひ読んでいただきたい。

 

からかい上手の高木さん(1)」

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ついでにちょっと触れた藤沢数希さんの本もリンク貼っておきます笑

「僕は愛を証明しようと思う」

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【大学教育シリーズ第二回】教育機関も垂直統合から水平統合へ

大学の教育というテーマで前回記事を書いてからだいぶ間が空いてしまったが、第二回ということで教育機関の垂直統合から水平統合へのシフトについて書いてみたい。

垂直統合から水平統合へのシフトは現在コンテンツ業界のほぼ全ての方面において起きている現象である。動画コンテンツで言えば元々はテレビ局からの垂直統合でこの業界は成り立っていたがスマホの台頭により、テレビはYoutubeやCchannelやAbemaTV,Netflix, LINE LIVEなどと並び動画コンテンツの一つとなり、チャンネルの独占という利権は崩れつつある。これによってコンテンツはテレビ局から視聴者へという従来型の垂直統合からコンテンツが横並びで競争を始める水平統合へと切り替わろうとしている。

これと同じことが教育機関でも起ころうとしている。これまで教育機関は6歳から12歳は小学校、12歳から15歳は中学校、15歳から18歳は高校、それ以降は大学という流れが一般的であった。しかしこれも動画コンテンツ業界と同じで水平統合になりつつある。ネットには様々な教育コンテンツが存在している。Youtubeで数学や理科、社会の解説動画を見ることも可能であるし、例えばSimple Showのような世の中の事象をわかりやすく解説してくれる動画コンテンツもある。またリクルート社のスタディーサプリやニコニコ動画のN高では教育のプロと言われる人々の授業が(高校や大学と比べて)安価で簡単に受けられる。その他にも最近ではオンラインサロンを開設する人が増えている。代表的な例でいうと堀江貴文イノベーション大学校や勝間塾といったオンラインサロンが挙げられる。堀江貴文イノベーション大学校では分科会というものが存在し、様々な分野における事業のプロジェクトに参加又は企画することができたり、毎月行われる定例会では各分野のプロフェッショナルから直接話しを聞くことも可能である。勝間塾も以下のような構成となっている。

勝間塾では、勝間和代が講師を務め専門家などもお招きする月例会や毎月の課題などを通して、みなさんの仕事のスキルアップ、起業や出版、やりたい気持ちの維持をサポート。
男女比は半々でオフ会や合宿も盛んですので、一緒に学びたい仲間に出会うことができます。
5年後になりたい自分になるために、ともに支えあって成長していきましょう。

勝間塾WEBサイトより

www.katsumaweb.com

このように教育機関というよりは近未来的なコミュニティーに近いかもしれないが、これらのコンテンツは今後間違いなく高校や大学の地位を脅かすだろう。そのタイミングとしては、企業の採用の形が変わっていくときであろう。これまでの高校や大学で大企業仕様に教育されてきた人材を大企業が庇い切れなくなったタイミングでこれまでの共同幻想が崩れていく可能性は極めて高い。こうなった世界において、大学や高校での教育はネット上で数ある教育コンテンツの一つとなり、より安価で同じかそれ以上の教育を受けられることに気づいた人々は従来の教育機関で学ぶことに意味を見出さなくなるのではないだろうか。

 

ということで次回は私の知っている限りのオンラインサロンを幾つか紹介していく。 

「ほのほ」(2005,スピッツ)における主人公の狂気

 今日はスピッツの「スーベニア」というアルバムに収録されている「ほのほ」という曲に関する分析をしていく。

前回のエントリーにも書いたようにスピッツの曲には死の臭いが強く漂っている曲が多いという内容を述べたが、今回取り上げる「ほのほ」(読み方は「ほのお」)もまさに死というテーマが後ろにある気がしてならない。

イントロのギターのリフの切迫感や序盤の歌詞にもある

みぞれに打たれて 命とがらせて

煤けた街で探し続けた

崩れそうな橋を息止めて渡り 

「気のせい」の先に見つけたものは...

(ほのほ、2005)

というフレーズはあたかも主人公が今煤けた街で死の狭間にいるような情景を思い起こさせる。

歌詞に登場する主人公の目的はただ一つである。サビにも出てくる「君を暖めたい」というのが彼の唯一の目的なのである。煤けた街で「君」を探し続けている主人公のイメージがぼんやりと浮かんでくる。主人公にとっての「君」とは既に他界してしまっており、体からは熱が奪われてしまった状態なのかもしれない。そんな「君」の消えてしまった魂を探して主人公は煤けた街探し続けているのではないだろうか。そして「気のせいの先」に君の存在を感じ、自らも赤い炎になることを決意する。冷めてしまった「君の魂」を暖めるために主人公は炎となり自らの命を投げ「君」を追いかけて死を選び別の世界へと旅立っていく歌なのではないかと私は感じる。アウトロの力強いメロディーは主人公が自らの選択を自ら祝福しているかのような、世間的に見ると間違いを犯しているであろう主人公であるが、そんなものは何も見えず「君を暖めたい」という思いだけで別の世界へと飛んでいく主人公の想いが感じさせられる。 

スピッツの歌詞において主人公は決して善良な市民ではないと思う。

クズと呼ばれても笑う

(8823、2000)

夜を駆けていく 今は撃たないで

(夜を駆ける、2002)

正しいと信じた 歩みが全て

罪なこと 汚れたことだとしても

(Sj,2016)

など世間的に見ると非道徳的であったり、罪なことであったとしても主人公と君との世界におけるルールが彼にとっては絶対でありその他は関係がないのである(もしかしたらそのルールは「君」にすら合意を得ておらず彼の独りよがりのルールなのかもしれない)。そんな狂気にも捉えられる力強さやそれを表に感じさせない草野正宗の甘い声もまたスピッツの魅力を強く惹き立てている。

「ほのほ」はそんな二人だけの国における主人公の強すぎる程の感情がむき出しになった曲なのである。

余談だが「スーベニア」のジャケットにある赤い背景で亀に乗った人が「ほのほ」の主人公なのではないかと妄想したりしている。

 

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スピッツに対する想い

思春期に聞いた音楽がその人にとって特別な音楽であり続けることは少なくない。僕にとってスピッツはそんな存在だ。思春期の感性豊かな時代に見た景色や感じた匂いやあの言語化できない感覚。そんな何かがスピッツの音楽を聞いていてふと現れることがある。その感覚は心地よくもあり、時に辛い過去を思い出させることもある。現在の自分とスピッツの歌詞に登場する主人公を照らし合わせてしまうこともある。スピッツという色眼鏡を掛けて世界を見ることによって美化された過去や現在、そして未来に酔いしれることができる。

音楽の幅の広さという面においてスピッツは他の名だたるアーティストたちに劣る部分があるかもしれない。例えばくるりは180度違うといえるような音楽が同じアルバムの中に何曲も存在し、まるで音楽を聞いていて旅をしているような感覚を与えてくれる。しかしスピッツの音楽はくるりのような多彩な楽器を利用したり、特異なアレンジを加えるのではなく、4人のバンドという骨組みにとことんこだわり、30年近くそれを突き詰めてきている(もちろんくるりを否定するわけではなく、大好きなバンドの一つだ)。そんなロック一筋なスピッツの一貫性はとにかくかっこいい。

そしてスピッツの存在の特異さはその歌詞にも現れている。

誰も触れない二人だけの国

(ロビンソン,1995)

 知らない人のほうが少ないといえるスピッツの名曲「ロビンソン」の歌詞の世界はまさにスピッツそのものだ。私の記憶する限り殆どの曲は俺/僕と君という二人の人間の間の世界を描いた作品である。

スピッツの曲は死という概念と深く結びついている。ボーカルで殆どの曲の作詞作曲を手がける草野マサムネは自分の作る曲のテーマは「セックスと死」だけであると述べている。人間であれば誰しも抱える絶対的な問題である「死」の臭いがスピッツの曲たちからは強く感じられる。

夜を駆けていく

今は撃たないで

(夜を駆ける,2002)

 

崩れそうな橋を

息止めて渡り

(ほのほ,2005)

 

こげた臭いに包まれた

大きなバスで君は行く

(サンシャイン,1994)

など俺/僕や君の「死」を思わせる歌詞は多々存在する。そしてこれらの「生と死」が交錯する歌詞が彼らにしかない独特の世界観を作り出していると言えるだろう。

そんな私の大好きなスピッツのアルバムや各楽曲などを取り上げたりしつつ様々な視点からこのバンドを考察していきたいと思っている。独りよがりな文章になってしまうかもしれないが、お付き合いいただければ幸いである。